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[事例研究]科学的知見と裁判

(執筆者)日本医師会総合政策研究機構 弁護士 水谷渉


1.DNA型鑑定のこわさ

DNA型鑑定が刑事捜査の精度を高め、犯人検挙につながった例は枚挙にいとまがない。科捜研の捜査員をテーマにしたテレビドラマまで放送され、人気を博しているようである。それほどまでにDNA型に基づく捜査は実績を上げ注目を浴びている。

しかし、他方で、当時用いられた科学技術が発展途上であったことが、数年後にあきらかになり、冤罪事件を生み出すこともある。栃木県で幼稚園バスの運転手が児童殺害で逮捕され、のちに再審無罪となった足利事件である。足利事件ではMCT118という手法のDNA型鑑定が用いられ、犯人と現場遺留物に付着していたDNAが一致したとされた。しかし、この鑑定手法の精度に疑問があり、その後に定着した精度の高い鑑定手法(STR)を用いたところ、DNA型は一致しないという結果になった。

つまり、一度有罪の確実な証拠とされたDNA型鑑定が、その後、無罪の確実な証拠とされ、無罪を証明したのである。


2.乳腺外科医事件とDNA型鑑定

DNA型鑑定で、遺留物と容疑者のDNA型が一致した、という報道がなされれば、あたかもその容疑者が真犯人であるかのような印象を与えてしまうが、それは拙速だ。

足立区の病院に勤務する乳腺外科医が、2016年5月10日の乳腺腫瘍摘出術後に患者の乳頭を舐めたとして逮捕されたのは同年8月25日であった。108日間の身柄拘束を経て、一審無罪判決までに約2年半の時間を要した。現在も東京高等裁判所に係属中である。

この事件は、(1)手術終了から約30分後のできごとで、プロポフォール(注1)が患者の体内に多く残留していることは疑いなく、(2)犯行があったとされる時点で、患者の意識レベルは相当程度低下していることが、患者、その母親、看護師の証言からうかがわれ、(3)人の出入りの多い満員の病室で薄いカーテンで隔てられた空間で5分間も乳頭を舐めるという犯行状況が極めて不自然であり、(4)アミラーゼ(注2)や大量のDNAが乳頭に付着する機会は別にあることが容易に想像でき、(5)当該乳腺外科医は過去にこの種のトラブルがまったくない、という背景を有している。

この事件で明らかになったのは、科捜研のDNA型鑑定のずさんさ、そして、警察・検察がDNA型鑑定を笠に着て乳腺外科医を犯人に仕立て上げたこと、である。


3.科学に名を借りた「人の推測」

検察官は、患者の乳頭を拭ったガーゼに、乳腺外科医のDNAが大量に付着しており、この量は舐めなければつかない量であるとして、乳腺外科医を起訴している。DNA型鑑定をもとに、乳腺外科医があたかも患者の乳頭を「舐めた」かのようなイメージができあがった。

これは科学に名を借りた「人の推測」に過ぎない。

具体的に説明しよう。

DNA鑑定は、標本Aと標本BのDNAが同一人に由来するかどうかを判別するというDNA型鑑定(STR)である限り、精密で信頼に足りる科学鑑定である。全く見ず知らずの間柄で、被害者の体から乳腺外科医の細胞が検出されたのであれば、犯人と疑うには十分である。しかし、本件の場合、乳腺外科医と患者の間柄であるため、患者の乳頭から乳腺外科医のDNAが検出されたとしても、何ら不思議なことはない。

そこで、検察は「DNAの量」を問題とした。しかし、「DNA量」から細胞の由来を推測することについて、サイエンスとして確立した知見はない。また、触診をした乳腺外科医の指先にも大量のDNAが付着しており、これが乳頭に転写された可能性もある。さらに、唾液にどのくらいのDNAが含まれるかというのは、唾液にどれくらいの口腔内細胞等が含まれるかという問題であって、剥落した口腔粘膜が飛沫に乗れば、大量のDNAが検出されることもある。

さらに、大量のDNAがついたからといって、乳腺外科医が「舐めた」という「行為」を証明することにはならない。なぜならば、そもそもDNA定量検査はそこにどれくらいのDNAが存在するかを示すに過ぎず、犯人の「舐めた」という「行為」までを証明するものではありえないからである。


4.杜撰な科捜研のDNA型鑑定

大量のDNA(1.612ng/µl)が付着していたことの根拠となるDNAの抽出液については、科捜研の検査担当者が年末の大掃除で破棄した旨証言している。また、大量のDNA(1.612ng/µl)が付着していたことの根拠となるリアルタイムPCRの定量データの開示(検査機器に自動的に保存されるようになっている)を求めたところ、科捜研の検査担当者は、標準試料の増幅曲線と検量線は破棄されて、1.612ng/µlの定量データの検証ができないことが証言された。さらに、科捜研の検査担当者の実験ノート(ワークシートと呼ばれている)の原本の開示を求めたところ、すべて鉛筆で記載され、9カ所にわたり消しゴムで消されて書き直した跡があった。


5.結論

本来であれば、公開裁判であるから、証拠資料を含めた資料が国民に開示されて、裁判の正しさを法廷外でも検証できるようにすべきである。しかし、刑事訴訟法は証拠の目的外利用を禁止しており、これがかなわない。

科学的知見を活かした裁判とするには、これに携わる法律家が、科学鑑定の「正しさ」をきちんと見極める目を持つ必要があるということになる。


[脚注]

  • 注1)全身麻酔や鎮静剤に用いられる医薬品
  • 注2)唾液などに含まれる消化酵素
(公開日 : 2020年05月28日)