人事労務Ⅰ F/U NO.5

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[事例研究]心臓弁置換術後の高齢者において消化管出血時に抗凝固剤投与を中止した事例

(執筆者)日本医師会総合政策研究機構 主任研究員 王子野麻代 / 日本医師会常任理事 石川広己

(法律監修)銀座中央総合法律事務所 弁護士 高山烈


平成24年、心臓弁膜症のため機械弁置換術を受けていた患者(当時86歳)が、Y1病院入院中に心原性脳塞栓症を発症し、のちに死亡した。遺族らは、抗凝固剤(ワルファリン)の投与を中止したこと等が原因であったとして、担当医Y2の過失を訴えた。

一般に、心臓弁を機械弁に置換した場合、その表面で血栓が形成されやすく、脳梗塞等の「血栓塞栓症の発症リスク」が増大するため、ワルファリン等の抗血栓薬を投与すべきであるとされている。当該患者についても弁置換手術後にワルファリンの投与がなされていたところ、Y1病院入院中にその投与は中止された。担当医Y2は、患者にワルファリンの禁忌症状である「出血」が疑われたことから投与中止を指示していたが、患者側は医師の判断は消化器内視鏡診療ガイドラインを遵守したものではないと主張した。

ワルファリン投与による「出血リスク」と投与中止による「血栓塞栓症発症リスク」のどちらを重視するか ―診療ガイドラインの解釈をめぐって、患者側と病院側が対立した。


1.事案の概要

昭和52年頃 心臓弁症につき生体弁置換手術を受けた。以後、抗凝固剤(ワルファリン)を投与。
昭和58年頃 生体弁から機械弁への置換手術を受けた。

平成25年 7月10日 Y1病院に入院(食思不振等のため)。
入院初期に新鮮血の下血が判明。
内視鏡手術により、出血性大腸ポリープの止血術を受けた。
8月12日 Y1病院を退院(以後、A医師往診を受けていた)。

9月10日 A医師の診察時に、患者は「前日に下血があった」と伝えた。
10月7日 A医師の診察時に、患者は「最近、再び黒色便が出るようになった」と伝えた。
A医師は血液検査を踏まえ、「貧血(++)」「ワルファリンを中止する必要あり」とカルテに記載。
10月8日 A医師は血液検査により貧血が進んでいることが判明したことから、「消化管出血の可能性あり」として、Y1病院宛の紹介状を渡す。
Y1病院を受診。担当医Y2はワルファリン投与の中止を指示。そのままY1病院に入院。
10月17日 内視鏡検査において、盲腸と直腸に天井発赤。盲腸の天井発赤からは出血あり。
10月18日 頭部CT検査により脳梗塞が疑われ、転院。

平成26年 4月2日 転院先の病院で死亡。

2.裁判所の判断

病院は、診療契約に基づき最善の注意義務(注1)を負うところ、本件では平成25年10月8日に担当医Y2がワルファリンの投与中止を指示したことが注意義務違反にあたるかが争点となった。平成24年に発行された「抗血栓薬服用者に対する消化器内視鏡診療ガイドライン」によると、抗血栓薬使用者に対する消化器内視鏡検査・治療では、抗血栓薬の使用による「出血のリスク」と休薬による「血栓塞栓症発症のリスク」の両方に配慮しなければならないとされている。本件では、病院側は前者の「出血リスク」を重視して投与を中止したのに対し、「・・患者側は本ガイドラインのなかに「最近では重篤度の面から出血のリスクより血栓塞栓症発症のリスクの方が重視されてきている」旨の記載があることなどを根拠として投薬を継続すべきであったと主張した。


(1)診療ガイドラインの解釈 -両リスクの比較衡量-

裁判所は、患者側が指摘する上記箇所について、「ワルファリンの投与による出血のリスクを軽視してよいと述べているわけではなく、そのリスクは重視しなければならないことを前提とした上で、近年の傾向として従前よりもワルファリンの投与中止による血栓塞栓症発症のリスクが重視されるようになってきたことを述べたものであり、本件ガイドラインを全体としてみれば、あくまで個々の状況に応じて両方のリスクを衡量しながらワルファリンの投与中止の是非を慎重に判断しなければならないことを述べているというべきである」という解釈を示した。

本件では、(a)7月上旬に新鮮血の下血判明による内視鏡的止血術、(b)9月の下血、(c)10月7日の黒色便、(d)10月7日及び10月8日の血液検査における貧血の進行などの事情が考慮された。裁判所は、これらの事情から当該患者に消化管出血が生じていることが強く疑われたとしたうえで、担当医Y2は「両方のリスクを比較衡量し、特に現に消化管出血が生じている疑いが強かったという事情を重視して、血栓塞栓症のリスクより出血を助長するリスクを防止することを優先し、ワルファリンの投与を中止したものと認められ、その判断が不合理であったとはいえない」として、10月8日以降ワルファリンの投与を継続すべき注意義務があったとはいえず、担当医Y2の過失は否定された。


(2)その他の争点

上記のほかにも、10月8日以降にPT-INR検査の定期的な検査などをしなかったこと、10月17日に脳梗塞を示す症状を見落としていたことについての過失も争われたが、いずれの過失も否定された。


3.おわりに

本件のように、診療ガイドラインの記載の解釈は、医師の過失判断にあたり重要な基準となることがある。同判決は、診療ガイドラインを全体としてみて個々の状況に応じたリスクの比較衡量の必要性を示したうえで、当該医師の判断は「不合理であったとはいえない」として過失を否定した。

もっとも、事案によっては、診療ガイドラインのみならず、医師会や医学会等の学術誌、指針やマニュアル等が引用されることもある。筆者の調べ(注2)によると、「医師会雑誌」の引用事件数は56件(引用回数81回)であり、そのうち日本医師会雑誌は42回、アメリカ医師会雑誌(JAMA)は33回、イギリス医師会雑誌(BMJ)とスウェーデン医師会雑誌は各1回であった。たとえば、広島地裁(平成4・10・12判決)は、一般開業医の医療水準は、一般に通読購読している資料に掲載され、広く周知し得る状態に至っていたことが必要とし、その一例に「日本医師会雑誌」を挙げている。アメリカ医師会雑誌は、特にスモン訴訟のときに多用されていた。さらに、日本医師会発行の指針、マニュアルやガイドラインなどが引用された裁判例もある[下記(2)参照]。下記情報が参考となれば幸いである。

(1)最新の主な医学的知見

(a)Mindsガイドラインライブラリ(公益財団法人日本医療機能評価機構):国内外の診療ガイドラインが検索可能

(b)日本医師会雑誌online(毎月発行)

(c)日本医師会生涯教育online

(d)日医e-ラーニング

(e)各種医学会雑誌など


(2)過去5年間の主な裁判例引用実績(日本医師会刊行物)

(a)「日本医師会第Ⅲ次生命倫理懇談会報告書」秋田地判平成31・3・22

(b)「甲状腺疾患―診断と治療」秋田地判平成31・3・22

(c)「診療情報の提供に関する指針」那覇地判平成31・4・16

(d)「医師の職業倫理指針」秋田地判平成31・3・22/那覇地判平成31・4・16

(e)「神経・精神疾患診療マニュアル」名古屋地判平成28・7・15

(f)「肝疾患診療マニュアル」東京地判平成27・10・29

(g)「熱中症の概念と重症度分類」大阪地判平成27・4・17



(注1)人の生命および健康を管理する業務に従事する者は、危険防止のために、経験上必要とされる最善の注意を尽くして診療に当たる義務を負う(最判昭和36・2・16)。

(注2)ウェストロージャパン判例検索キーワード「医師会雑誌」,「日本医師会」(検索日:2019年11月8日)なお、判例検索に掲載されていない判決もあり、その点で調べに限界がある。