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人事労務Ⅰ F/U NO.2

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[事例研究]小児科医の過労死事件

(執筆者)日本医師会総合政策研究機構 主任研究員 王子野麻代

(法律監修)銀座中央総合法律事務所 弁護士 高山烈


政府の働き方改革を契機に、医師の長時間労働の実態が浮き彫りとなった。長時間労働の常態化は、過労死を招くリスクを孕んでいる。

ここに、平成11年の中原利郎医師(当時44歳)の過労死事件を紹介したい。遺族らは、中原医師の過労死は病院に責任があるとして争ったが、第一審および控訴審にて請求は棄却され、最高裁が和解勧告をした極めて異例の事件であり、20年前のことといえども今にも通ずる教訓がある。


1.事案の概要

  • 中原医師は、昭和56年3月に医学部を卒業。千葉県内の病院勤務を経て、昭和62年から都内の病院に小児科医として勤務していた。19の診療科と300床以上の病床数を有する総合病院で、2次救急病院の指定を受けていた。さらに東京都の夜間診療事業や乳幼児特殊救急医療事業への参加を通じて、地域医療にも貢献していた。
  • 平成11年1月31日、中原医師は小児科部長代行に就任した。
  • 平成11年3月、思いがけず常勤医2名が退職したことで、中原医師の労働環境は一変した。この月の時間外労働時間は83時間、当直回数8回に及んだ。その後も連続して60時間を超える時間外労働に迫られ、睡眠不足(睡眠障害)のため睡眠薬を常用していたが、その症状は増悪していった。
  • 常勤医の退職により、小児科医として業務負担が増える一方で、部長代行としての医師確保問題がさらなる負担となった。
  • 平成11年8月16日午前6時40分頃、体力も気力も失った中原医師は、病院の屋上から飛び降り、18年間の小児科医人生に自ら幕を下ろした。
  • 遺族らは、中原医師の死は、病院における業務上の過重な肉体的、心理的負荷によってうつ病を発症・増悪させたことが原因であるとして、病院の安全配慮義務違反を訴えた。

2.裁判所の判断

(1)病院の安全配慮義務違反の有無

病院は、労務提供過程において勤務医の生命や身体の健康を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っている。控訴審判決は、安全配慮義務違反があったというためには、「業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積することにより、心身の健康が損なわれて何らかの精神障害を起こすおそれを具体的客観的に予見可能であることが必要である」とした。

本件について、同判決は、中原医師の時間外労働時間等から業務過重性を肯定し、さらに部長代行として常勤医や日当直医の減少という事態解決に対処しなければならなかったことについて「小児科医師の不足した社会趨勢からして、解決が極めて困難な問題である」として、それによる相当な身体的又は心理的負荷も認めている。

中原医師は睡眠障害を抱え、局面的にはうつ病の症状を呈していた。ただ、全体として業務をそれなりにこなし、無断欠勤等をすることもなかったこと、精神科への受診歴はなく、病院の産業医に精神的な苦痛を相談したこともなかったこと等から、裁判所は「周囲の者がうつ病と思わなかったのもやむを得ない」、「精神障害を起こしていることはもとより、精神異変をきたしていることを認識することもできなかった」とし、予見可能性を否定した。


(2)最高裁、異例の和解勧告

上告に対し、最高裁は和解勧告をした。最高裁における和解率は0.1%と低く、極めて異例のことであった(注1)。

和解条項の前文には、「日本のよりよい医療を実現するとの観点から最高裁が和解を勧告した」と明示され、遺族側の川人博弁護士は「こうした表現は個別の事件では異例。医療界に改善を求める最高裁の強いメッセージ」であるとした 。さらに、「医師不足や医師の過重負担を生じさせないことが国民の健康を守るために不可欠である」ことが確認された点については、「医師をめぐる様々な問題に対して、患者、病院、裁判所も同じ土俵に立って対応していくという姿勢が見られた。これまでの最高裁の和解勧告と比較しても、格調の高い前文」と評価した(注2)。


3.20年後にも通ずる教訓

最高裁は、中原医師の過労死事件の和解条項に、国民の健康を守るために2つの課題を挙げた。「医師の過重負担」と「医師不足」の解消である。20年後の今なお、いずれも根本的な解決には至っておらず、本事件を通じて再検討したい教訓である。


(1)医師の過重労働の是正

過重労働の是正については、たとえば改正労働基準法において、時間外労働時間に罰則付き上限規制が設けられた。これまでも上限規制はあったが、特別条項を設けることにより事実上無制限の時間外労働を行わせることが可能であったため、罰則付きへと厳格化が図られている。さらに、労働安全衛生法の改正により、長時間労働に対する健康確保措置として、すべての労働者を対象とした客観的方法による労働時間の状況の把握が義務化された。

長時間労働と健康障害との間に疫学的な相関があることを踏まえれば、労働時間を定量的に把握し規制することは、医師の健康を守る一つのバロメータになる。

ただ、同じ労働時間であっても何らかの健康障害が起きるかどうかには個人差がある。また、裁判との関係でみても、労働時間のみから判断されるものではない。中原医師事件の例では、第一審は業務過重性もうつ病との相当因果関係も否定したが、控訴審ではいずれも肯定している。

これらを踏まえると、院内において法に基づき労働時間を把握し規制を遵守することは長時間労働を是正する第一歩となるが、加えて、健康状態のモニタリングなどを行い、異変を察知した場合に具体的な健康措置に結びつく院内体制の構築をいかに図っていくかが重要になると思われる。


(2)過労死の背景にあった「医師不足」問題

今回の裁判では、病院の予見可能性が争点となり、第一審と控訴審がそれを否定したなか、最高裁は「よりよい医療の実現」を掲げ、中原医師の過労死の背景にあった「医師不足」問題の解消も含めて国民の健康のために不可欠と説き、大所高所からの解決を図った。

和解条項に、“患者”ではなく、“国民”と表現されていることや、一病院が対策を講じるには限界のある医師不足問題に触れているところに、当事者間の問題を超えて、国全体の問題であり、政策的な解決を促しているように個人的には思える。 厚生労働省は、医師・医療従事者の「働き方改革」を、これと関連性の深い「医師偏在対策」と「地域医療構想の実現」も合わせて三位一体の改革と位置づけ、医療需要が急激に増大する2025年、その先2040年を展望した医療提供体制改革を進める方針を明確にしている。まだまだ長い道のりではあるが、今後の政策動向は注目に値する。



(注1)小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会最終総会・シンポジウムにおいて、遺族側の岩崎政孝弁護士は、「最高裁で結論が変わるのは、100件に1件程度。和解は1000件に1件くらいと少なく、極めて異例」と説明している。(出典:m3.com「労災でも病院に責任なし、の高裁判決の効力を失わせたかった」2010年10月18日)

(注2)朝日新聞記事「小児科医自殺訴訟『よりよい医療へ』和解 最高裁、異例の勧告」2010年7月9日