人事労務Ⅰ F/U NO.15

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[事例研究]医療刑事裁判と「疑わしきは被告人の利益に」

(執筆者)日本医師会総合政策研究機構 弁護士 水谷渉


1.はじめに

令和2年7月13日、地裁で無罪とされていた乳腺外科医に対し、東京高等裁判所で逆転有罪判決が言い渡された。医師をはじめ多くの人から、この判決に対し、疑問の声が呈されている。

この問題の本質はどこにあるのだろうか。


2.乳腺外科医の有罪判決の内容

女性患者から、平成28年5月に右乳房の腫瘍の摘出手術を執刀したドクターが、全身麻酔終了後約20分以内の時点で、(1)1回目の訪室時に胸をなめられた、(2)2回目の訪室時にベッドサイドで自慰行為をしていた、と訴えられた。110番通報を受けて臨場した警察官は、女性患者の胸に付着している微物(DNA・アミラーゼ)の証拠保全を行った。

第一審では、女性患者のせん妄の可能性が指摘され、無罪の判決が言い渡された。せん妄の専門家(がんセンターの精神腫瘍科の医師)の証言によれば、せん妄患者のうち、約30パーセントに幻覚が見られるという。

しかし、控訴審判決では、(1)女性の被害供述は生々しく、記憶の欠損がないこと、(2)被害を訴えた直後にスマートフォンのLINEを使ってマネージャーにメッセージを送っており、その内容が周囲の状況と合致していこと、などから、仮にせん妄の状態にあったとしても、幻覚を見た可能性はないと断じ、有罪判決となった。


3.新生児の急変に関する助産師の有罪判決

全く別の判決である。平成15年4月18日、都内の大学病院で、助産師が生後3日の新生児をベッドにうつぶせに寝かせ、約25分間そのそばを離れていた。児は7か月後に死亡。うつぶせ時の鼻口部圧迫、閉塞に起因する低酸素脳症が死因として、業務上過失致死罪で起訴され、罰金40万円の有罪判決を受けた(一審で確定)。

この裁判では、弁護側は、心肺停止の原因は鼻口部圧迫による窒息ではなく、SIDS(乳幼児突然死症候群)または、ALTE(乳幼児突発性危急事態)であったとして、争った。

裁判では、鼻口部圧迫・閉塞に起因するものであるとする専門家の鑑定意見も出されたが、小児科医と法医学者から、死因はSIDSまたはALTEであるとする意見や死因不明であるとする意見も出されていた。


4.疑わしきは被告人の利益に

古代の刑事裁判では、占星術や権力者の独断などの不合理な理由により、人権侵害が生じてきた。そのため、近代の刑事裁判では、有罪の認定は確実な証拠によること、そして、確実な証拠がないときは無罪とする、ということが確立した。

医療刑事裁判では、被害者の死因は、外因性のものなのか、自然死によるものなのか、どちらとも確定できないケースがありうる。科学的な知見を総動員しても、どちらとも確定できない問題がしばしば出てくる。

しかし、刑事裁判では、疑わしきは被告人の利益(つまり無罪)に判断しなければならない。有罪、無罪どちらの結論もありうることを前提に、有罪の結論の可能性が高いからといって有罪判決を言い渡してはならない。なぜならば、無罪の可能性が否定できない以上、これに有罪を言い渡せば、冤罪となるからである。有罪とするには「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」が求められており、合理的な無罪の疑いがある場合には、無罪の判決をしなければならない。

先に挙げた、乳腺外科の件も、患者がせん妄状態である可能性を認めながら、幻覚の可能性はないと断じることはできない。また、乳幼児の突然死の件では、もし、あおむけに寝かせていれば必ず助かったとは言い切れない。そもそもSIDSの合理的な可能性が否定できない以上、やはり有罪にするのは困難のように思える。

このように、医療刑事裁判では、「疑わしきは被告人の利益に」という思想が浸透していない判決が相次いでいる。判決は、想像力ではなく、科学的根拠により、慎重が上にも慎重を重ねて判断されるべきである。

深刻な問題なのは、このような状況が、医療刑事事件にとどまる固有の問題ではなく、刑事事件全般に言えるという点である。

乳腺外科医事件の問題の本質は、日本の刑事裁判全般において、「疑わしきは被告人の利益に」という原則が軽んじられ、浸透していないことにある。